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人間万事塞翁が馬

 

「人間万事塞翁が馬」という言葉は、中国の故事である。 昔、中国北方の 塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は 胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると、胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折って しまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり、若者たちはほとんどが戦死した。しかし、足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ(出典:故事ことわざ辞典)。 この故事から、「幸(福・吉)」と思えることが、後に「不幸(禍・凶)」となることもあり、またその逆もあることのたとえとして「塞翁が馬」と言うようになり、「人間のあらゆること(人間の禍福)」 を意味する「人間万事」を加えて、「人間万事塞翁が馬」と言うようになった。

 そもそも、なぜ、私がこの言葉と出会ったかというと、実は、昭和56年(1981)刊行され、同年、第85回直木賞受賞 し、昭和57年(1982)テレビドラマ化された青島幸男氏の小説である「人間万事塞翁が丙午(ニンゲンバンジサイオウガヒノエウマ)」という題名を聞いたときからである。当時は、小説の内容よりも、この不思議な題名の音感に魅了され、インターネットのない時代に、自宅の辞書や近所の図書館まで行って必死に意味を調べ、「そうか、丙午ではなく、馬が正しいのか」ということを学び、本来の言葉の意味を知るに至り、なぜかとても愛着を覚えた言葉になっていた。

 

 それから、月日が経ち、次第に私の記憶から消えていったが、大学を卒業して会社勤めをはじめて数年経ったある日、徹夜徹夜の勤務が続いたことが原因で勤務中に突然意識不明で倒れ、そのまま入院することになり、数ヶ月間、会社を休むことになった。それまで、会社の中では、結構頑張っていたと自負するところがあり、「自分が倒れたらきっと会社はたいへんなことになる」と焦っていたが、実際はまったく違っていた。時々、先輩や同期が入院先に見舞いに来てくれたが、そのとき、必ず「俺が担当していた○○の件はどうなった?」と聞くと、答えはいつも「お前が居なくてもうまくやっているから心配するな」だった。最初は、なぜだ?だった。しかし、自分自身の傲慢さに気付いたときに、やっと「俺が居なくても会社は勝手に回るんだ」ということが理解できた。そして、なぜかこのタイミングで、記憶の奥にあった「人間万事塞翁が馬」という言葉を思い出した。今は、入院という「不幸」に見舞われているが、裏を返せば、自分の傲慢さに気付けたし、きっとこの後には、「幸」がある、まさに「塞翁が馬」だと実感した瞬間であった

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