top of page

萩の七化け

 

 先日、とある友人から京都伏見の地酒である「桃の滴」を戴いた。できればおいしく飲みたいと思い、気の利いた「ぐい呑み」を1つ探していた。「ぐい呑み」と一口で言っても、世の中には様々なものがあるが、私は、色やデザインは何となく武骨だが、どこか懐かしいようなフォルムの「萩焼」が気に入り、それに関する興味深いこぼれ話に行き着いた。

 

 萩焼には、「萩の七化け(はぎのななばけ)」と呼ばれる特徴がある。萩焼は、原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬(ゆうやく、又は、うわぐすり[上薬]とも 言う)の間に大きな収縮率のズレを生み、表面に「貫入(かんにゅう)」と呼ばれる細かいひびができる。長年使い込むことで、そのひびにお茶が浸透し、徐々に器の表面の色が適当に変化し枯れた味わいになる。これを「萩の七化け」という。

 

 ということは、当然、新品の萩焼は、水が漏れる。だが、よく考えたら、漏れる器は、器としての本来の機能を果たしていない。古代人は、両手をコップのように組んで水を飲もうとしても、指と指の間から水が漏れて飲めないから、器なるものを発明したはず。なのに、それを真っ向から否定するような器が、茶人の間では、「萩焼ならではの味わい」として珍重されてきたことに正直驚いた。

 

 萩焼のふるさとは、吉田松陰高杉晋作などを生んだ毛利家の城下町である山口県の萩だ。萩焼は、今から400年前関ヶ原の戦いで敗北し、領地を減らされた毛利輝元(てるもと)がはじめたもの。「戦には敗れても、焼き物では誰にも負けたくない。」そんな意地から、毛利輝元は、豊臣秀吉に仕えていたころ、茶の湯の世界でもてはやされた朝鮮半島の名品を数多く目にし、これに似た焼き物を作り出そうと考え、茶人たちを唸らせる独自の焼き物を作り出した。それから260年もの間、当主の無念が詰まった萩焼を胸に、長州藩士は、来るべき打倒徳川の策を練り、遂に無念を晴らしたのかもしれない。

 そんな、乱世を生きた一人の武将である「毛利輝元」の秘められた意地を肴に、豊臣秀吉が没した地である「京都伏見」の地酒を鬼萩割高台の「萩焼」の酒盃に注ぎながら一杯やるのが、今から楽しみだ。

bottom of page